おじいちゃん

こんにちは!

ヨガインストラクターのNanaです★

いつもブログを読んで下さってありがとうございます。

 

かなりお久しぶりのブログになってしまいました(^^;

タイトルのまま今回は完全にプライベートな事を書きます。

 

実は、8月26日に祖父が旅立ってしまい、お別れをするのに北海道へ帰省していました。

今年の6月の終わり頃だったか、、祖父は入院しました。

私もすぐに駆けつけたかったけど、コロナの影響もあって面会はもちろんNG、東京からはなかなか帰る事が許されず、看取ることはできませんでした。

最後に話したのは、入院する前に実家に電話した時に、具合が悪く電話にはほとんど出ない祖父と奇跡的に話す事が出来ました。

‘おじいちゃん、身体の調子はどう??’

‘悪い!地獄のエンマさまのところに行くのも近いかもしれない’

なんて冗談を言えるくらい。

でも、祖父は常に強気で前向きで、冗談であってもそんな弱音を吐くのは珍しく、そこに驚いてしまいました。

間も無く、さらに体調が悪化し、入院する事になったのです。

 

 

北海道の千歳空港から近い田舎町で、その中でも信号も家から1㎞くらい離れた場所に唯一ひとつあるくらいの何もない地区。

最寄駅は徒歩1時間以上。歩道なんて無くて、ダンプの運ちゃん達がショートカットするのにガンガンスピード出して通る一車線の道沿いを少し入った所に実家があります。

周りは牧場や農家が多く、草原が広がる素晴らしい景色の、絵に描いたようなThe北海道の暮らしを高校生まで私はしていました。

冬はマイナス25℃にもなる極寒の地域で、築80年にもなる古い家は私が住んでいた当時から隙間風が酷く、ストーブをガンガン焚いて暮らしていました。

祖父は、父と牧場と農家をしながら、私が物心ついた頃には町の議員をしていました。

私が小学校高学年になる頃に叙勲受章を受けることになり、天皇陛下に会いに東京まで行ったという話は祖父の自慢でした。あまり自分では言うことはなかったけど、母や親戚がおじいちゃん凄いんだよ!と聞かされていたのは覚えています。

父や叔父、叔母が遺影に使う写真を探していた時に見つけた写真だそうです。

 

私の家は平屋で、増築した両親の部屋と母屋は廊下で区切られていて、私は小学生になった頃から、両親とは寝ず、なぜか祖父母と一緒に寝ていました。

赤ちゃんの時からお風呂に入れてくれていたのも祖父母だったと先日母から聞きました。

おじいちゃん、おばあちゃんと一緒にいた時間はとても長かった。

畑を耕す時も、収穫する時も、豚舎に行く時も、町内のお店に出かける時も。後を付いて行って横で遊んでいました。

祖父母は、肥満体型ということもあり、膝が悪く、70代の時だったか手術をしたくらい。

それでも、田舎は車がなければ、買い物に行くことも、病院に行くことも、誰かに会うこともでき無いので運転をしてくれていました。最後まで大きい事故が無くて本当に良かったです。

私は小学校高学年くらいから少しずつお洒落に興味が出てきて、祖父に毎週のように車で30分くらいかけてショッピングモールに連れて行ってもらい洋服をねだり、買ってもらっていました。

妹と一緒に、遊園地や、大きい公園、クマ牧場とか色々な所へ連れて行ってくれました。

昨年元職場のメンバーと北海道旅行の時に実家に行った時の。

 

友達の家への送り迎え、部活の送り迎えも、高校生の時は駅までの送り迎えも、両親と同じくらいいつもしてくれた。

遠い叔父、叔母の家にも沢山連れて行ってくれたし、小樽や釧路、虻田など何時間もかかる祖父の兄弟の家にも一緒に連れて行ってもらって、叔父、叔母だけでなく、大叔父、大叔母にも可愛がってもらっていました。

とにかく、小さい頃から沢山の人とコミュニケーションを取らせてくれたのは祖父母だったなと思います。

今の自分に活きているなぁと思います。

 

 

大正生まれの祖父は若い頃戦争で台湾に行っていました。

小さい頃から、戦争の話は一切聞くことはなくて、家でそんな話になった事はありませんでした。

でも、5年前の帰省した時に初めて戦争の話をしてくれました。

当時の状況。でもほんの一部。

時間が経ってから、もう少し詳しく聞いてみたいと思った私は、

‘戦争の時の話なんだけどさ、’

‘もう思い出したくないんだ。’

と言われ、それきり。

戦争映画とかでは描く事が出来ないくらいの ‘リアル’ な状況は本当に恐ろしかっただろうなと。

きっと今でも脳裏に焼き付いているんだろうと思います。

それ以来、家族も親戚も誰1人戦争の話をすることはありませんでした。

 

 

祖父は、昨年の11月頃に、体調を壊し一旦検査入院をしました。

膀胱癌である事が判明したのです。

病気について知識が無い私は、96歳になって癌になるなんて事があるのか・・そりゃあるだろうけど、ショックでした。

祖父は、高齢で心臓も弱くなってきているという事もあり、手術をすることは出来ないと。

それで放射線治療をする事になりました。

肥満体型という事もあり、血圧が高い、前立腺の肥大があったりしたけど、家族の誰よりもご飯を沢山食べるし、鉄の胃だなんて言われるくらい胃腸を壊した事も見た事なく、風邪をひく事もほぼなく、頭もしっかりしているし、魚釣りが趣味で、釣って来た魚は自分でさばく所までしていました。とにかくいつも元気!というのが祖父で、そんな祖父をいつも誇りに思っていました。

そんな祖父が、少しずつ弱っていくのを見るのが本当に心苦しくて。

実際には会って無いけど、母と頻繁に連絡を取っていたので状況を細かく聞いていました。

祖母は認知症が進んでしまい、色々忘れやすくなっていたので祖父の介護をするのが難しく、でも祖母なりにお風呂を入れたり、朝食を準備したりできる事をしていました。偶然、祖父が入院をするタイミングで腰を骨折してしまい、祖母も入院し、今は施設で暮らしています。

それを見守りながら、介護をしていた母の心労が心配で心配で・・・。

祖父が入院するまでは、何もしていないのに私まで夜なかなか眠れない日が続きました。

本当に無力だと思ったけど、もしコロナが無くて帰ることができたら、私はどれだけ近くにいる事ができただろう?

母と一緒に、介護することができたのだろうか?

弱っていく祖父に目を背けず、向き合うことができた?寄り添うことができただろうか?

話を聞くだけでもショックなのに。

 

母はかなり疲れ切っていたけど、‘これは30年後の自分の姿だと思っている’

‘誰にも迷惑かけない!って動けるうちは誰だって思っていても、いつかは誰かの助けが必要になるもの’

成長しきった後に、枯れること退化することも、生まれるということは死ぬということも頭ではわかっている。

でも、家族の死を受け入れると言うのはかなり難しいことですね。

イメージをして共感する事と自分の身に起こることは ‘0と100くらい違う’

 

祖父の怒った口調も、喜んでいる笑顔も、今も鮮明に覚えています。

死期が迫っているのがわかっていると周りに言いながらも、最後の最後まで良くなって家に帰ろうと思っていたと母から聞いた時は、‘生きたい’と言う気持ちが強い祖父を誇りに思いました。

 

葬儀が終わって、親戚もみんな帰った後に、母屋が ‘がらーん’ と誰もいない空間に涙が溢れてきました。

ついこの間まで、いつもいた2人がこの茶の間にいないなんて。

今年の1月にコロナが流行る前に帰省した時は、調子は良く無いと言いながらも、2人とも笑顔で茶の間で話したのに。

つい、半年くらい前の事なのに。

‘おぉ!帰ってきたのか’

ドラマや映画のように、そこから聞こえてくるような感じがしました。

 

思い出した時には電話をするようにしていたし、入院中は手紙も何回も送った。

出来ることはやったけど。

最後に会った今年の1月は、もっっっとたくさん話しておけばよかった。

話さなくても、ずっと茶の間に居ればよかった。

 

切りがありません。

 

とにかく、私にとって最高のおじいちゃんでした。

口数は多くなかったけど、面白くて。

厳しさ、向上心、優しさを教えてくれた。

たくさん愛情をかけて私と妹を育ててくれて、ありがとう。

おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、妹も、私もおじいちゃんのことをいつも思っているよ。

また、来世できっと会えることでしょう。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

実家の裏の畑からみた夕焼けです(^ ^)

 

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